「弁慶」
「どうしました?」
「…ん、なんでもない」
言いかけた言葉を飲み込んで、振り返ってくれた彼から視線をそらす。
「ごめん、忙しいよね」
「…何かあったんですか?」
「ううん、別に…」
「そうですか」
一瞬衣擦れが聞こえたけれど、すぐに止まっていた薬研を動かす音が耳に届いた。
大した事じゃないんだけど
ただ、何となく…
その続きがどうしても言えなくて、何度も弁慶の手を止めてしまっている。
このままここにいたら、邪魔だよね。
そう思って立ち上がろうとした瞬間、名前を呼ばれて足を止める。
「すみません。そこにある紙を持って来て頂けますか」
「紙?」
「えぇ、そこにありませんか?」
「えっと…」
周囲を見回してみるけど、それらしき物は見つからない。
もしかしてあそこの棚にあるかな?
そう思ってそちらに歩こうとした瞬間、背後から伸びてきた手に体を抱きしめられた。
「え」
一瞬、今の状態が把握できなくて立ち尽くしていると、ため息と共に弁慶の声がすぐ後ろから聞こえて来た。
「…全く。普段は素直なのに、どうしてこんな時ばかり抱え込むんです」
「は?え?」
「紙は僕の側にあります。最初に君が渡してくれたでしょう?」
そういえば、そうだったかもしれない。
「本当は、どうして欲しいんですか」
「…どうしてって」
「君の願いは僕が全て叶える、と言ったでしょう」
「…」
「教えて下さい。僕は愚かだから愛する君の事だというのに…言葉にされないと分からない」
そんな事、絶対ない。
弁慶はいつだって、あたしの事をあたし以上に知っているのに。
そう言おうと思ったけれど、口を開こうとすると別の言葉が出そうになる。
慌てて両手で口を押さえて、何も願う事はない…と首を横に振る。
「…本当に?」
「…」
頷く
僅かな沈黙。
そして抱きしめていた腕と、包み込んでくれていた香りがゆっくり離れていく。
その途端に切なくなって、つい口を覆っていた手を外して振り向いて彼の名を呼ぶ。
「弁慶っっ!!」
そうなる事が分かっていたかのように両手を広げていてくれて、当たり前のように今度はしっかりと正面から抱きしめてくれた。
「…君は素直なのが一番ですよ」
「弁慶〜」
「はい」
「べんけぇ…」
「なんですか………」
こんな時だけ、そんな風に耳元で名前を呼ばれたら。
堪えた涙が零れちゃうよ。
「…泣かないで」
「むり…」
「じゃぁその涙を、僕に拭わせて下さい」
そっと目元に触れたのは、柔らかな彼の唇。
ただ抱きしめて欲しくて、その手に、温もりに…触れたかった。
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