そっと扉を閉めて、氷の溶けた水桶を手に立ち上がると、目の前にあの人がいた。

「弁慶様…」

「政子の具合はどうだ?」

「随分落ち着きました。弁慶様にお見舞い頂いたのが効いたようです」

「熱は」

「昨日より下がりましたが、まだ夜になると上がる状況が続いています」

「そうか」

頭を垂れたまま、淡々と状況を伝える。

「では、次に目覚めたらこれを飲ませておいてくれ」

「…はい」

伸ばした手に、一瞬だけ触れた…手。
その手が離れた後の手のひらに残ったのは、小さな丸薬。

「苦いけれど、君なら政子に飲ませられるだろう?」

「お任せください」

「ありがとう。それじゃあ、頼むよ」

足音が離れていったのを確認して、その背を見送るため顔をあげる。

「武蔵坊、弁慶……様」

ぽつりと呟いた愛しき人の名は、彼の人には決して届かない。










「相変わらず冷たいな」

「お前が優しすぎるんだよ」

「気にかけてやってるなら、名前で呼んでやればいいのに…ずっとお前を見てるぞ?」

離れていく際、背に感じた視線に気づいていないわけはない。

「弁慶は、強くないからな」

……は?

伊勢に渡された紙面から目を離す事無く、答える。

「名を呼ぶと、情が移るだろう」

「…弁慶」

「それに、弁慶には、沙那王の面倒だけで手一杯だ」

「なに!?」

「頼むから鍛錬の後、汗を拭かずそのままでいて風邪なんてひかないでくれよ」

「そんなことするか!」

「どうだかな」

くすくす笑いながら、ちらりと政子の部屋へ視線を向け、すぐに隣にいる沙那王へ戻す。



、と名を呼べば情が移る
情が移れば、この手は二手に分かれてしまう

弁慶の手は、2本しかない
そして、この手は沙那王のためにある

だから、こうして心の中で君の名を呼ぼう



――― 、と…





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源氏を読み返して、弁慶が好きだったの思い出した。
空也も好きだ…続き、出ないのかな。
2010/06/29