10.優しい嘘






「貴女が・・・嫌いですよ、さん。」

「・・・」

「もう僕の前に・・・現れないで下さい。」

そう言うとメガネ君は自分の飲んだコーヒー代だけをテーブルに置いて、店を出て行った。










いつもはあたしが困るくらい側にいて、周りの皆にいつも冷やかされていたのに・・・最近急に姿を見せなくなった。
あたしが嫌いになったのか、それとも他に好きな人が出来たのか、メガネ君の本当の気持ちが知りたくて呼び出した。
電話の向こうのメガネ君の声はいつもと全く変わりなかったけど、店に入ってきたメガネ君の視線は・・・驚くほど冷たかった。

「久し振りですね、さん。」

「・・・太一朗君。」

「飲み物は頼みましたか。」

「あ、うん。」

「・・・すみません、コーヒーを。」

水を持ってきた店員が差し出したメニューも受け取らず注文をすると、メガネ君はまっすぐあたしの顔を見つめ・・・何かを探るようにじっと瞳の奥を見ている。

「太一朗・・・」

「貴女は僕じゃなくても生きていける人だ。」

「え?」

突然妙な事を言い出したメガネ君に思わず聞き返す。

「けれど僕は・・・貴女じゃなきゃダメなんです、さん。」

「・・・じゃぁどうして最近一緒にいてくれないの?」

例えメガネ君がどんな答えを告げたとしても、それを受け止めようって心に決めて来た。
それなのにあたしがそう言った瞬間、何より悲しそうな顔をしたのは・・・メガネ君だった。

「僕には貴女しかいないんです。」

「・・・」

「でも貴女には・・・他にも沢山の人がいる。」

確かに自分は友人が多い方だと思ってはいるけど、メガネ君より大切な人なんていない。
けれどあたしが口を開く前に、胸にずっと秘めていたメガネ君の心がどんどんあたしに押し寄せてくる。

「貴女が他の人と喋るたびに僕の心は闇に飲まれていく!貴女が他の男と喋るたびに、甘い声が男の耳に届く度に、貴女の唇を塞いでしまいたくなる!
貴女が見るのは僕だけでいい!僕だけを見て、僕の側にだけいてくれればいい!!

そこまで言い切るとメガネ君は肩の力をふっと抜いて、まるで幼い子供のような目であたしを見た。

「・・・僕は、こんな男なんです。」

「太一朗・・・君。」

「貴女に嫌われたくなくて、貴女のお友達にも会っていましたが・・・限界です。」

「い、嫌なら言ってくれれば良かったのに・・・」

そんな事を言ってもメガネ君が断らないと、あたしは心の何処かで確信していた。
彼はあたしに対して否定の態度を取らない、と。

「・・・言ったら貴女が困るでしょう?」

万人の心を惹きつけてしまいそうなほど綺麗で悲しい笑顔。
心臓を直に掴まれたように痛みが走る。
そんなあたしを見ていつものポーカーフェイスに戻ったメガネ君は、運ばれてきたコーヒーをひと口飲むと小さな声で呟いた。

「これ以上貴女の側にいると、僕は貴女を壊してしまうかもしれません。」

「壊・・・す?」

「えぇ。」

「・・・」

意味が分からなくてその答えを求めるように彼の顔を見つめた。
暫く視線が絡み合い、やがてメガネ君の方が視線を外して席を立つ。

「貴女が・・・嫌いですよ、さん。」

「・・・」

「もう僕の前に・・・現れないで下さい。」

まだひと口しか飲んでいないコーヒーの代金を置いて、彼は店を出て行った。
残されたあたしに店中の視線が集まっている事に気づいていたけど、今はそれよりも彼の真意を知る事が先だ。



何よりも、誰よりも優しくて傷つきやすいメガネ君。
自分の存在が相手を傷つけてしまうなら、先に自分が壊れてしまえばいい。
そんなメガネ君だから、側にいたいと、いて欲しいと思ったんだ。










バッグの中から財布を取り出しおつりも貰わず店を飛び出し、メガネ君の後を追う。
夕日の沈む川原でメガネ君の背中を見つけ、もつれる足でその背中に飛びついた。

「太一朗君!」

さん?」

「あたし丈夫だから!」

「・・・は?」

「壊れないし、耐久性あるし、体力にも自信あるから!!」

「あ、あの・・・さん。」

夕日を背に困った顔をしているメガネ君を更に困らせるかもしれない。
でも、どうしても伝えなきゃいけない。

「あたし、やっぱりメガネ君が・・・」

「・・・」

「太一朗君が、好きなの。」

「・・・」

「だから、離さないで・・・お願い。」

胸に残っているのは店を出る時に見せたメガネ君の冷たい表情と言葉。
もう、二度とあんな言葉を彼の口から言わせたくない。

「・・・僕の前に姿を見せないで下さいって言いましたよね。」

「うん。」

「覚悟は、出来ているんですか。」

「・・・うん。」

「僕は貴女をこのまま連れ去って自室に閉じ込めてしまうかもしれないですよ。」

「うん。」

「それでも・・・」

「それでもあたしは太一朗君と一緒にいたいの!」

これ以上彼の口から何も聞きたくなくて、あたしは初めて自分からメガネ君にキスをした。

「・・・さ」

「お願いだから、あたしを守るための嘘は・・・もう止めて・・・」

「貴女と・・・いう人は・・・」

子供のように顔を歪めて涙を流すメガネ君をギュッと抱きしめる。



――― 貴女を、蝶子さんのように傷つけたくなかった



自分の愛が深ければ深いほど、相手の生活を乱してしまう事をメガネ君は知っていた。
だからあんな嘘をついてあたしから離れようとしたんだ。

けれどあたしの羽はメガネ君の愛に絡め取られていて、今更逃がしてくれても空の飛び方を忘れてしまった。





だから、最後まで一緒にいて・・・あたしが空を飛べなくなるまで、優しい嘘でもいいからその糸で、あたしを捕まえていて。





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