12.甘い罠






「おいで、姫君。」

分かってるの、差し伸べられてる手をとったらどうなるかって。

「おや?何を躊躇っているのかな?」

口元を僅かに緩めて、でもその目はまっすぐこっちを見ている。

殿は、私の手を取るのがお嫌かな?」



嫌 ――― な訳ない

ずっとずっと見つめていた、大好きな少将・・・橘友雅殿。

彼が何処の姫君のお屋敷に通ったとか、お付き合いされているのが何処の姫君だとか・・・噂を確かめる勇気なんてなかったけど、でもその噂にすら耳を傾けて貴方の事を想っていた。

「・・・おいで、殿。」

今、目の前に差し伸べられているのは・・・間違いなく友雅殿の手。
ずっと、ずっと夢見ていた憧れの人の、手。



けれどその手をとってしまったら、私は一体どうなってしまうの?




















差し伸べた手を戸惑うような瞳で見つめる、姫君。
私はずっと・・・貴女の事を想っていたのだよ。
世間の噂を耳にして、それでも貴女が想ってくれているという自信が私にはあったのだ・・・と言えば、貴女はどんな表情(かお)を見せてくれるのだろうね。



互いが互いを一途に想いあう事など数えるほどしかない ――― この時。

その中でただ一人、貴女だけが・・・いつまでも変わらぬ視線を私に向けてくれていた。

殿。」

貴女の名を口にするのは、初めてではない。
毎夜、何処にいても誰といても・・・この乾いた胸を癒す雫は、貴女の名しかなかったのだから。




















穏やかな瞳、柔らかな物腰。
絵巻物から現れたかのように優美な友雅殿が、今・・・目の前にいる。
正式な婚姻の印を持って、今・・・私の目の前に、いる。
今でも夢としか思えない。
この手を取れば、友雅殿の姿は霧のように消えてしまうのだと。

けれど目の前の友雅殿は、私が一歩踏み出すのを待っている。
言葉で誘いながら強引に引き寄せるわけでもない。



私が・・・一歩踏み出すのを、待っている










あと少し私が手を伸ばせば触れられる距離に・・・貴女がいる。
この僅かな距離が貴女と私を隔てている壁だ。
私がこの壁を壊すのは・・・たやすい事だよ。
殿を思う気持ちなど、とっくにこの壁を越えてしまっているのだからね。

けれどそれでは・・・意味がないのだよ。

貴女の想いを、見せて欲しい。
貴女より外見が綺麗な姫君、家柄が裕福な姫君、才に秀でた姫君は沢山いる。
だが貴女以上に透明な心で私を想ってくれている姫君を、私は知らない。

「さぁ・・・殿。」

私の口から洩れる声に、頬を赤らめ躊躇う姿もまた愛おしいね。
その姿をもっと、もっと見ていたいけれど・・・そろそろ限界だ。



早くこの手を・・・取ってはくれまいか?
私の・・・ただ一人の愛しい姫君











ゆっくり、ゆっくりと震える手を差し出された友雅殿の手に重ねる。
重ねられた手を、まるで壊れ物のようにそっと包み込む大きな手。



夢にまで見た・・・彼の、手



「ようやく、来てくれたね。」

「・・・はい。」

華やかな笑顔で迎えてくれる・・・友雅殿。
ただ一人、私のためだけに見せてくれる笑み。
それが嬉しくて嬉しくて、思わず目が潤みそうになって慌てて袖で顔を隠す。

「何故顔を隠されるのかな。」

「・・・は、恥ずかしいからです。」

「今まで貴女の顔を拝見できたのは数少ない・・・これからはどんな貴女の表情もこの目に焼き付けたいと私は思っているのですよ、殿。」

「で、ですが・・・」

「その手を・・・どけなさい。」

言葉は厳しいけれど、その声色はまるで甘い砂糖菓子のような響き。
そっと顔を覆っていた袖を下ろせば、間近に迫る友雅殿の端正な顔。

「・・・あぁやはり貴女の瞳は朝露の雫のように澄んだ目をしているね。」

「っ!」

「それにとても愛らしい唇だ。その桜の蕾のような唇で・・・私の名を呼んでは貰えまいか。」

逃がさないようしっかり掴まれた右手。
もう片方の手が私の頬に添えられ、友雅殿から視線をそらせない。



――― もう、私は彼の罠から抜け出せない




















頬を染め、何度か呼吸を繰り返した後、意を決したように顔をあげ、ゆっくり口を開くその姿は・・・まるで一枚の絵巻物を見ているかのようだね。



新しい絵巻物・・・先に何が書かれているかも分からず、続きが気になって紐といていく。
今の私の気分は、些かそれに近いものがある。



「・・・友雅殿。」

彼女の小鳥のようにか細い声が私の名を呼んだ瞬間・・・その音色が私を支配する。
心奪われる想い、というのはまさに今の瞬間だろう。



数多の姫君と仲睦まじい時を過ごした私を、ただ一言でこんなにも熱くさせるのは ――― 殿、貴女だけだ。



だが、男女の色恋に至極鈍いと見られる姫君は私の名を呼んだだけで、まるで一仕事終えたかのように息をついている。

「おやおや私の名を口にするだけでそのように顔を赤らめられては、これからどうなってしまうのかな?」

今まで以上に顔を真っ赤に染め上げた殿は、私の手を振り払って後ろへと下がってしまう。
やれやれ、全てを私の物にするには・・・もう少し時間をかけなければならないかな。


―――だが、 貴女を手に入れるならば・・・私はどんな手段も選ばないよ





BACK