33.傷つけばいい











「・・・てめぇこんな書類が通ると思ってんのか?」

目の前の無造作に放り出された書類と、厳しい上司の一言。

「すみません。」

「謝罪の言葉より使えるモン作れ、おい花喃。」

「はい。」

側でデータ入力をしていた花喃さんに、たった今あたしが提出した書類を渡す。

「その入力を後回しにして、先にこれを仕上げてくれ。」

「・・・分かりました。」

「三蔵さん!」

花喃さんは今、別件の大切な仕事をしている。
同じ上司について仕事をしているんだから、花喃さんがどれだけ今忙しいかっていうのもわかる。
それなのにあたしのやりかけの・・・一週間かけてまとめた仕事を花喃さんに渡すなんて!
そう思って三蔵さんの名前を呼んだけど、それに返って来たのは冷たい視線と声。

「てめぇが使えねぇ以上他のヤツがやるしかねぇだろう。」

「でも!」

「それがここのやり方だ。知ってるだろうが!!

バンッと机を叩かれてその音に体が萎縮する。
そして大きなため息の後、三蔵さんが言葉を続ける。

「お前を俺の下につけたのは前回の実績があったからだ。だが今のお前にはあの頃の熱意も、やる気も感じられない上に・・・ただ与えられた仕事をがむしゃらにこなそうとして、自分を痛めつけてるようにしか思えん。・・・無駄に空回ってるだけだ。」



・・・頭から冷水をかけられた気分だった。





悟浄さんにふられて、暫く会社を休んだあたしに待っていたのは・・・異例の昇進だった。
三蔵さんの所での1ヶ月の働きが認められ、今後更に多忙になると思われる彼の下で・・・あたしは再び働く事となった。
今度は期間限定でなく、本当の部下として・・・。
花喃さんに一から教育指導を受け、三蔵さんから仕事を教えられる毎日。
忙しくて家に帰ると寝るだけの生活が続いて、その間あたしは何も考えなくてすんだ。
でも2週間も経てば仕事にも慣れ、ふと気持ちが緩む時・・・あの人の事が頭に浮かんで仕事の手が止まってしまう。





「・・・今のままじゃ異例の昇進も無かった事になるぞ、。」

大きなため息とともに再び大量に積まれた書類に手を伸ばす三蔵さん。
その書類の半分は・・・あたしがやらなければならない物だった。

「すみま・・・せん。」

謝ってすむ事じゃない。
それでも頭を下げずにはいられない。

この人に認められたい・・・そう思っていたはずなのに、今はこの人の胸を刺すような言葉が、声が、視線が ――― 怖い。
そのまま顔を上げられずにいたら、不意に花喃さんの声がすぐ側から聞こえてきた。

「三蔵さん、珈琲豆が切れたんでちょっと席を外しますね。」

「あぁ?」

ちゃんにもお店覚えてもらいたいから、一緒に来てくれる?」

その声に導かれるように顔を上げると、花喃さんが柔らかな笑みを浮かべて微笑んでいた。
そんな花喃さんに逆らえるはずもなく、あたしは小さく頷いた。

「それに新しい豆にしたいので・・・ちょっと時間かかりますけど、構いませんよね?」



花喃さん、今・・・忙しいんじゃないんですか?



「新しい・・・」

「えぇ。」

顔を見合わせている二人の顔を交互に眺めていたら、やがて三蔵さんが机に置いてあった煙草に手を伸ばしてそれを取り出すと同時に時計へ視線を向けた。

「・・・1時間だ。」

「分かりました。じゃぁちゃん行きましょうか。」

「え?」

「それじゃぁ行ってきます。」

「あぁ。」

部屋の電話を留守電に切り替えて、部屋の扉には会議中の札。

「うふふっ上司公認の買出しよ。ゆっくりお茶しましょうね。」

「・・・は?」

いまだ訳が分からないあたしの手をしっかり掴んで歩き出す花喃さんの足取りはやけに早い。
それにこんな強引な花喃さん・・・今まで見た事がない。










驚いているうちに到着したのは、会社に一番近い喫茶店。

「いつものコーヒー豆を200gお願いします。あと・・・ミルクティーを2つ。」

「花喃さん?新しい種類の豆を買うんじゃないんですか?」

「えぇ、買うわよ。」

だって今・・・いつもの珈琲にミルクティー2つって・・・。

「ゴメンなさい。ちゃんミルクティーよりも普通の珈琲の方が良かった?」

「あ、いえ・・・」

「良かった・・・あそこの席に座りましょうか。」



・・・相変わらず考えが読めない人だ。



それでも先輩の言う事には逆らえない。
トレイに乗せられたミルクティーと買ったばかりの豆を持ってその席に座る。





暫く何も言わずお互い紅茶を飲んで窓の外を眺めていた。
風が吹いて地面の葉を空へ舞い上げていく・・・今日も空は嫌になるくらい、青い。
青空の下、悟浄さんと一緒に手を繋いで出掛けたのがついこの間みたい。
そんな風に物思いにふけっていたら、不意に花喃さんが口を開いた。

「私ね・・・八戒が好きなの。」

「・・・は?」

危うく落としかけたカップを受け止め、慌てて元に戻す。

い、今さり気なく凄い事言いませんでした?
あ、でも家族としてって事、かな?

そう思って花喃さんの顔を見れば・・・今まで見た事がないくらい綺麗に微笑んでいた。

「八戒が・・・好きなの。」

「え?でも・・・あの八戒さんは・・・」

「弟、よ。」

「ですよ・・・ね。」

「私達の親、幼い頃に離婚してね。ずっと八戒とは離れ離れに暮らしていたの。でも・・・ずっと連絡を取り合っていて、お互い社会人になってようやく一緒に暮らせるようになったの。」

初めて聞く、花喃さんのプライベートな話。

「あの子は分からないけれど、私は八戒を異性として愛しているわ。」

そうキッパリ言い切る花喃さんは・・・同姓のあたしから見てもとても綺麗だった。
自信に満ちているようで、愛情に満ちた笑みを浮かべていて・・・とてもとても幸せそうに見える。

「・・・」

でもそれじゃぁ、悟浄さんは?悟浄さんの想いは・・・何処へ行ってしまうの?



――― 数ヶ月経った今でも・・・あたしはまだ、彼の事が忘れられない。



「・・・ねぇちゃん。ちゃんは悟浄くんの事、どう思っているの?」

「は?」

花喃さんの話の飛び方についていけない。



八戒さんの話からどうして・・・悟浄さんの話に飛ぶの?



そんなあたしの疑問など露知らず、花喃さんは悟浄さんについて語りだした。

「私は悟浄くんの事、可愛いと思っているわ。八戒以上に人に気を使う子で、好きな相手には強く出れない・・・可愛い弟みたいだって。」

「弟・・・ですか?」

「えぇ。」

「本人にそれを・・・」

「言ったわ。」

それでも悟浄さんは花喃さんが・・・好きなんだ。

「でもそれを言ったのは悟浄くんがまだ高校生の時よ。」

「・・・え!?」

思わず声が大きくなって慌てて口を手で押さえて周りを見渡す。
オフィス街のまだ就業時間だから人が少なくて助かった。
そんなあたしを見て花喃さんは楽しそうにくすくす笑っている。

「八戒と暮らし始めた頃、悟浄くんに告白されて・・・でもちゃんとお断りしたの。私は八戒が好きだからゴメンなさい・・・って。」

「でも悟浄さんは・・・まだ・・・」

「悟浄くん、言ってくれたわ。八戒アイツとなら幸せになれますよって・・・笑ってね。」

その台詞を言うのがどれだけ大変か・・・それでも相手を思いやってそう言ってくれる悟浄さんの気持ちを考えると、やっぱりあたしはまだ悟浄さんの事が好きだって思う。

「その後、花喃さん以上の女の子を捕まえてみせますからその時は一番に祝福して下さい・・・とも言ってたっけ。」

「・・・」

「私が悟浄くんにおめでとうって言ったのは今までに一度だけよ。」

「?」

花喃さんがそっとあたしの両手を握って、一言一言・・・まるで小さな子供に言い聞かせるようにゆっくり口を開く。

ちゃんと付き合っている悟浄くんに、一度だけ『おめでとう』って言ったわ。」

「・・・あたし・・・と?」

「悟浄くんね、今まで見た事がないくらい頬を緩めて・・・これ、くれたの。」

そう言って花喃さんが取り出した手帳のページには一枚のプリクラが貼られていた。

「これ・・・」

「うふふ・・・あの子、これを見ながらいつも話してくれたわ。ちゃんがあれした、これした、ここに行った、あそこに行ったって。ずーっと隣で聞いていた八戒はちゃんと悟浄くんがデートで行った場所暗記しているんじゃないかしら。」

「・・・」



胸が苦しい。
そんなに想われていたなんて知らなかった。
いつも緊張していて、うっかり転んだり変な事言ったりしてるあたしの事をそんな風に話してくれていたなんて・・・。

自然と視界が緩んできて、慌ててハンカチを取り出して目元を覆う。

ちゃんは悟浄くんの事・・・どう思っているの?」

「・・・」

「彼の気持ちは今関係ないの。ちゃんの気持ちは・・・どうなの?」

「・・・」

「・・・気持ちを溜め込んでいるのはダメよ。いつか壊れてしまうから・・・」

花喃さんの優しい声が、悟浄さんと別れた日からずっと胸にしまいこんでいた想いを引き出してしまう。
言ってしまったらもう戻れないのに・・・。
それでも唇を噛み締めて堪えていたあたしの心の鍵を、花喃さんの一言が開けてしまった。



「悟浄くんの携帯の待ち受け画面は・・・今も八戒が撮った二人の写真のままよ。」










「悟浄!」

「あぁ?」

「ご馳走様でした♪」


初めて八戒さんを紹介された時、突然悟浄さんに抱きしめられた。
その後突然パシャって音がして・・・顔を上げたら八戒さんが笑って携帯電話を悟浄さんに見せていたのを思い出す。

後日悟浄さんから送られてきたメールに添付されていたのは・・・真っ赤な顔してあたしを抱きしめてる悟浄さんと、笑っているあたし。



それはあたしの今の携帯の待ち受け画面と・・・同じ。










「ねぇちゃん・・・もう自分を苛めるのはやめなさい。」

そっと抱きしめられて子供を慰めるように優しく背中を叩いてくれる。

「・・・自分の気持ち、分かった?」

は・・・い・・・



別れてから数ヶ月。
悟浄さんを吹っ切ろうと何度も何度も思った。

それでも街を歩けば長い髪の人や煙草を吸っている人に視線が自然と向き、何処か彼の姿を探す自分がいる。
三蔵さんの所で毎日忙しく過ごせば忘れられると思った。
でもそれは自分を誤魔化しているだけで、自分の気持ちから逃げているだけだった。
その結果・・・三蔵さんや花喃さんに迷惑をかけている。



目元を覆っていたハンカチを握り締め、震える唇で言葉を紡ぐ。

「あたし・・・まだ・・・悟浄さんが好きです。」

「うん。」

「彼が他の人を好きでも・・・あたしは、悟浄が・・・
好き。

「・・・うん。」

大好き・・・

ぎゅっと抱きしめてくれる花喃さんはまるでお母さんみたいにあたしを包み込んでくれた。
ずっと胸に溜めていた思いを吐き出せば、急に目の前のもやが晴れたような気がした。





・・・ここ数ヶ月、あたしは何をやっていたんだろう。
振られたから終わる訳じゃない。
振られたなら・・・今度はあたしから動けばいい!
こんな何も出来ないあたしじゃなくて、しっかり仕事をして真っ直ぐ前を見て自分の足で立っていられるイイ女になって・・・今度はあたしから告白しに行こう。
手始めに顔を洗って化粧を直し、もう一度あの上司と面と向かって話せる様にならなきゃいけない。
そう胸に秘めて花喃さんの所へ戻れば、ニッコリ笑顔で買ったばかりの豆を渡された。

「新しい豆の交換完了ね。」

「え?」

「気持ち、入れ替わったでしょう?」

「・・・あ。」

「私達の上司・・・口は悪くてちょっと厳しいかもしれないけど、それでもついて行こうって思える人よ。」





「それに新しい豆にしたいので・・・ちょっと時間、かかりますけど構いませんよね?」

「新しい・・・」

「えぇ。」

「・・・1時間だ。」






あぁ・・・あーっもう!!やられた!!

「花喃さん!すみません、先に戻ります。」

「・・・分かったわ。」

きっと花喃さんにはあたしが考えてる事なんてお見通しなんだろうな。
だからあたしは大急ぎで三蔵さんの所へ戻った。
バタンと大きな音を立てて部屋の扉を開ければ、視線だけ前を見ているさっきと同じ表情の上司がいた。
あたしは肩で息をしながら机の上に新しい豆を置いて頭を下げた。

「すみません!さっきの仕事もう一度私に下さい!!」

「・・・ダメだ。」

「今日中に修正箇所を提出し、明日中にはちゃんとした形で提出します!」

「・・・」

「お願いします!!」

シンと静まり返った部屋の中、花喃さんが戻ったのかヒールの音が近づいてくる。
そしてその足音があたしの隣で立ち止まったと同時に、バサリと音を立ててあたしの頭の上に何かが置かれた。

「・・・落とすんじゃねぇぞ。」

「?」

「花喃、さっきの入力の続きを進めてくれ。」

「はい。」

「三蔵さん!」

勢い良く顔を上げれば数枚の紙切れが勢い良く床に散らばった。
それはさっき花喃さんに渡されたはずのあたしが作った資料。

「残業は9時までだ。それ以上は認めん。」

「はい!」

「・・・期待して、いいんだな?」

「期待以上に働きます!」

「ほぉ・・・言うじゃねぇか。」

そう言ってニヤリと口元を緩めて笑う三蔵さんは、手前に落ちた書類を拾うと同時にあたしの頭をコツンと叩いた。
それがどれだけ嬉しい事か・・・あたしは忘れていた。



これは ――― 彼なりの激励なんだと。










もう自分を傷つけるのはやめよう。
これ以上傷つけても何も無いから
それなら傷口を風にさらして癒してしまおう。
そして少しでも前に・・・進もう。

その先にはきっと・・・何かが待っているから・・・





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